前スレ:
〜〜調律師と庭師の恋〜〜 14,冬の中の温もり35 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:01:16.02 ID:h.BCzZso Be:
〜〜調律師と庭師〜〜
窓の外は早くも暗くなり始め、明かりを照り返す白い雪が
ひらひらと落ちていくさまがどこかもの寂しい。
だが窓のこちら側は暖かく、悟飯も、その妻ビーデルも
幸せそうに笑み、その頬はばらのように明るい。
ピッコロ「来年の秋のはじめ頃になるのか」
ビーデル「ええ、…うふふ。寒くなり始める頃だから気をつけないといけませんね」
ごく親しい者だけ呼んだ夕食会は和やかに進んだ。
呼ばれた調律師は食事こそ採らないものの
微笑みあう弟子夫婦を見守りながらグラスを傾けるその表情は、
確かに常のそれよりも和らいでいる。
636 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:05:38.14 ID:h.BCzZso Be:
悟飯「その頃には僕の事業も一段落しているでしょうから、」
ピッコロ「たっぷりと傍にいてやれるな」
照れくさそうに笑って頷く弟子に、穏やかに頷きを返し、
調律師はビーデルに微笑を戻す。
ビーデル「もう、うちの父ったら、まだ性別も解らないのに名前を決めるってはしゃいじゃって」
悟飯「はは、ありがたいことだよね。お義父さんに名前は任せようよ」
ビーデル「あらそれでいいの?私は自分達で決めたいわ」
些細な言い合いすらも幸福感に包まれている若い夫婦。
それを見守る友人達もまた嬉しげに笑いさざめき、
新たにこの世に生を受けた小さな命が
本当に待ち望まれていると、
祝福されていると、
誰しにもしみじみと感じられる、それは、とても良い小さな集まりであった。
638 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:16:10.66 ID:h.BCzZso Be:
暖かな夕食会が終わり、友人たちが一人また一人と帰路につく。
新しい命に捧げる、掌で転がしていつまでも触れていたくなるような
柔らかく、可愛らしい旋律を奏でていた緑の長い指もそっと動きを止めた。
フェードアウトしてゆく耳触りの良い音楽に、ビーデルは名残惜しげにかわいらしい眉を下げる。
ビーデル「もっと聞いていたかったわ」
ピッコロ「そろそろオレも帰ろう、…長居をしてすまなかったな」
ビーデル「そんな。ピッコロさんなら泊まっていって下さっても良いのに」
悟飯「そうですよ。うちにはずっと、ピッコロさんの部屋は残してあるんですからね」
友人を門口まで送り、広間に戻ってきた悟飯がちょうどその言葉を聞きつけて口添えをする。
そうして下さい、とねだるビーデルの言葉に、ピッコロは少し迷うような素振りを見せた。
ビーデル「それに、その曲を私にも教えて欲しいわ。おなかの子に毎日聞かせてあげたいもの」
悟飯「かわいらしい曲でしたね。僕ももっと聞きたいな」
ピッコロ「……」
悟飯は、己の元教育係のその人物が、頷いてくれるものと信じて疑わない顔でピッコロを見ていた。
常ならば、ピッコロはその思い通りに若い夫婦の言葉に従ってくれただろう。
639 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:18:46.39 ID:h.BCzZso Be:
何度も引きとめる若い夫婦の誘いを、穏やかに辞して調律師は館を出た。
肌を刺すように外気は冷たい。
ちらちらと舞い散る白い雪が、調律師の長躯を覆うケープにふわりと舞い降りる。
640 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:21:11.26 ID:h.BCzZso Be:
やわらかな夜だった。
しあわせなひと時だった。
だがその、居心地の良い場所から逃げ出したくなってしまうのは何故だろうか。
643 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:29:36.47 ID:h.BCzZso Be:
ぼうと光るガス灯の下、ふと歩みを止めた調律師が
捧げ出すように掌を持ち上げる。
明かりに白く輝く雪が、
ゆっくりと緑の肌の上へと一枚舞い降りた。
冷たさを理解は出来る。
人の肌よりも随分と時間をかけて、少しずつ、少しずつ、
白い雪が形を崩し、透明に溶けていく様を、
赤い目がじっと見守っている。
644 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:33:08.91 ID:h.BCzZso Be:
冷たさを理解できても、
寒さを感じ取ることは出来ても、
それらは調律師の身に影響を与えない。
人のように、暖め合う温もりを欲しいとも、感じない、ただ。
646 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:39:34.18 ID:h.BCzZso Be:
雪の降る寒い夜を、調律師は好きではいられなかった。
誰に対してもうらみはない、
最早忘れかけていた昔の話だ。
それでも、好きではなかった。
思い出してしまうわけではない。それほどに捕らわれてはいないつもりだった、だが。
だが、……人の身を凍えさせるこんな夜に、
調律師はただ一人でいたいと望む。
元教え子の悟飯の屋敷は、ひどく、暖かい。
身肌ではなく心にも温もりを感じる、そんなあの場所すらも、
648 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:46:14.11 ID:h.BCzZso Be:
ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、
思い描いてしまったことがあった。
もう、ずっとずっと昔のことだ。
愛してくれた、あの優しい男と、
悟飯とビーデルのような幸せな家庭を築くことが出来るのではないかと。
ほんの一瞬だけだった、そんな夢物語を信じかけたのは。
649 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/16(火) 23:56:39.24 ID:h.BCzZso Be:
掌に残った水滴を握り潰した緑の拳を、下ろす。
調律師はまたゆっくりと歩き出した。
薄く雪が積もった夜道に、一人で歩む調律師の足跡がひと時残り、すぐに消えていく。
水音。
冷えた身のままでベッドに入っても、健康を害する体ではなかった。
だが習慣で風呂を用意した調律師の視線は、
籐かごの中に残っていた明るいオレンジの上で止まる。
しんと静かな、色味の沈んだ世界の中、
それだけが眩く温度を感じさせる。
651 ◆PICorehgzw [sagesaga] Date:2008/12/17(水) 00:06:03.99 ID:ISfSsgEo Be:
掴み取ったオレンジの鮮やかな香りが、
胸に満ちる。
肺腑が洗われるようだった。
つんと尖った鼻先を、すこしでこぼことした丸い果物に押し当てて、
調律師は目を閉じる。
思い出す、暖かな色で満ちた、あの庭。
ぬくもりから逃げる己が身だった、だが、
今、あの庭に行きたいと、
あの庭の明るさを、温度を、見ていたいと、
どうしてだかそう感じる。
緑の指がするりと伸びて、
長いその上を転がるようにオレンジが湯船に落ちた。
調律師「……明日は、晴れるといい」
晴れたら出かけよう、あの庭へ。
つづく。