調律師と庭師・夜会前のいつか

868 ◆PICorehgzw [sage] Date:2008/09/14(日) 02:02:56.97 ID:c2DLeswo Be:
〜〜調律師と庭師・夜会前のいつか〜〜

花以外に例えれば、空のような人だと、庭師は思う。
きらきらと輝きがさんざめくような旋律が窓の向こうから流れてくる。
それに耳を傾けながら、思うはその人のことだけだった。

空。しかも青空だ。
夏の空じゃないな、と庭師は考えた。
春先の、ムラがなくうすいうすい雲が全体を覆った、
ミルクを混ぜたようなやわらかなやわらかな青空だ。
きれいできれいで、とてもきれいで、
じっと見つめていると目の奥が眩しさでじーんとしてくるけれど、
それでいて優しくて、いついつまでも見つめていたくなるような、水色。
とても優しい風合いに隠されているけれど、
その人が奏でる音のように、きらきらと眩しい光を孕んでいるのだ。

そっと余分な蕾を千切りながら、庭師はうっとりと溜息をついた。
自分の考えをすばらしいものだと感じる。
これからは春先のうすぐもりの空を見上げる度に、
自分は幸せに包まれるだろう、と、その季節を楽しみに感じる。


871 ◆PICorehgzw [sage] Date:2008/09/14(日) 02:15:58.87 ID:c2DLeswo Be:
あの人が花ならば自分はあぶらむしだ。
あの人が空ならば自分は地べたに張り付いた濁った沼だろう。

「……まだ、沼の方がましだ」

あぶらむしはいずれ、花のうつくしさを守る為に駆除されるだろう。
だが沼ならば、ひっそりと、いつまでも空を見上げていられる。

「沼になりたいな」

その思いは多分に自虐を含んではいたかも知れないが、
湿り気はない。からりとした気持ちだった。
手が届かない人であることは解りすぎるほどに解っていた。
小指の爪の先ほどの望みもない憧憬は、
その思いによこしまなものを少量しかまじえない。


やがて庭師は作業を終えると、
ぼろぼろの身なりを少しでも整えるためにぱんぱんと衣類を叩き始める。
調律師の家へと招いてもらうためだ。
それが自然な流れに、いつのまにかなっていた。
だから庭師は未だ少しのおそれを感じながらも、
素直に調律師の招きに従うようになっている。


872 ◆PICorehgzw [sage] Date:2008/09/14(日) 02:20:42.02 ID:c2DLeswo Be:
きらきらと美しい、庭師に言わせれば「上等な音」を奏でる調律師が、
ふとその指を止めた。
窓の向こうに人影が現れたことに気付いて目を向ける。
いつも通り、どうにも居心地の悪そうなそぶりで庭師が帽子をぐしゃぐしゃにしていた。
ごつごつとした岩のような、汚れた手。
それとは似つかわしくない、子どものような目付き。
調律師は、他のものが庭師を見るような見下した視線ではない、
柔らかな眼差しでそれを見る。

「終わったか」
「お、終わったでがす」
「入って来い。急いで帰らなくても良いのならな」

庭師は勿論そのつもりだった。
許されるのならば、調律師の傍にできるだけ長く居たいに決まっている。
それがその人を困らせないのならばだが。

けれど今日はいつもと勝手が違う。


874 ◆PICorehgzw [sage] Date:2008/09/14(日) 02:28:12.55 ID:c2DLeswo Be:
「…………あ、 え、」
「入って来い。開いている」

調律師はいつも通りの落ち着いた口調でささやき、
先ほどよりもゆっくりとしたメロディを戯れのように指先から生み出す。
四本しかない緑色の美しい指が、白い鍵盤の上で踊る。
庭師の視線は自然とその指に向けられているが、
いつからだろうか、ピッコロは庭師のまなざしが指に注がれることに
不快やおののきを感じなくなっていた。
自然な動きで指を動かす調律師は、ピアノの前から離れようとしない。

庭師は暫くまごついていたが、やがて血の巡りの悪い頭にも
調律師の言葉が理解できた。

待っているから勝手に入って来い、ということだ。
まるで親しい友人のように。

「……わっ、 わ、 解ったでがす」

少し猫背気味の背をびんと伸ばし、庭師が緊張した声を上げる。
調律師は口端に、ふ、と滲む程度の笑みを浮かべてうなずいた。


878 ◆PICorehgzw [sage] Date:2008/09/14(日) 02:46:30.74 ID:c2DLeswo Be:
庭師が玄関を開けるまでにいくつの深呼吸を要したか。
ピアノの前から離れた調律師がすっかり飲み物を用意し終わってから、
痺れを切らして窓から顔を出し、氷が溶けるぞと呼ばわるまで、
扉の前でまごまごとしていたのだ。

「す、すまんでがす……緊張、しっちまって……」

テーブルの向かいにやっとのことで腰を下ろし、しきりに恐縮する庭師。
調律師は飲み物のグラスをそちらの方に押し出してやった。
不必要なまでに礼を繰り返してから、ようやっと庭師がグラスを持ち上げる。
青で縁取られた透明なガラスの中で、ころんと涼やかな音が響く。

「緊張することなぞ何もないだろう。初めての家でもあるまいし」
「そ、そんなこつおっさっても、せんせいのおうちでがす…」
「オレの家は居心地が悪いとでも?」

慌てに慌てて縮こまる庭師の様子に、ピッコロはクックッと珍しく笑い声を漏らした。
調律師に取ってはどうということもない行為なのだろう。
だが庭師は、身分も境遇も比べ物にならないほど悪い己を、
見下げることなくまるで友人だと錯覚してしまいそうな扱いで迎えてくれる調律師へ、
ますます思慕の念を募らせていくのだった。


                       おしまい。

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