ひたむきに想いを寄せ続けていた>>706を疑わなくなっていた。
信じていた、と終わってしまった今になって知らされた。
現実を拒絶したいが為、>>706を遠ざけた。
……逃げたかったのだろうか。何故耐えられなかったのだろうか。
今はもう、分からない。
色のない過去の安寧は、侘びしさと呼ぶものだったと思い至った。学ばされた。
これから先、何に向かっているのか。変わるものはあるのだろうか。
「――お前は何を望んでいる。」
委ねた結節に追随する。それだけは決定している。
痛みを感じている顔で熟考している様子の>>706を待つ。
「……先生を好きでいる事を、許して欲しい……。好きでいさせて欲しい、です……。」
線の細い声で小さく告げられたこの言葉は、何を意味しているのだろうか。
精神に響き渡る何かが生まれた。
久し振りに対峙した先生の姿を必死になって見つめる。
真っ直ぐに向けられた瞳。静謐さを湛えている。
見納めの様に虚しさが占めゆく。会わずとも、会ったとしても、痛い。
自分が考えなしの行動を取ったから、先生は学園から教師として自分を構う様に言われたんだろう。
容易に察せられる。申し訳なく思い、気持ちが沈んでいく。
けれど、その事を逆手に取り振りかざしてでも繋ぎ止めたい。
先生に関する何かに連なっていたい、属していたい。
顔を逸らされ、無きものの様に振る舞われた昨日までの新しい日常。
狂った時間の感覚の中で、ひどく長かったつらい日々の想起に苛まれ、急き立てられる。
話を、聞いてくれている。言わなければ。今、語らなければ。変えたい――。
以前の様に元通りに、とまでは望めない。また駄目になってしまう……。
先生が合わせてくれているこの状況ならば、もしかしたら聞き入れてくれるのかもしれない。
でも無理を、重荷を抱いて欲しくはない。
普通の生徒に接する様に、それだけを望んだ。
先生の心を掻き乱す事を許さない。煩わしい事をかかずらわせたくない。
何が悪かったのかは分からない。
それでもただ、今度は失敗しない様に、その事だけに心を蝕まれていた。
いつもと変化のない毎日だった。そうだったと思う。
何がきっかけだったのか、尋ねてしまってもいいのだろうか。
特に何かがあった訳ではなく、俺の今までの行動全てが原因だった、そう告げられはしないだろうか。
飽く程に繰り返された輪の様なこの思考に、また引きずりこまれてしまいそうだった。
変えるんだろう……。聞いてしまうしか、ない。
「……お、れには、先生に突然拒絶された、って……そう、思いました。」
「何が、……俺の、何がいけなかったんですか。」
「前よりましになるように、気をつけたい……。だから、教えて欲しい、です……。」
静かな瞳を向けられたままだ。
口が小さく開くその動きが遅々としているかの様に感じられた。
先生の手がこちらに差し伸べられる。断罪を受け、ただ殉ずる様に見つめていた。
「熱い……。」
頬を先生の指で緩やかに、辿る様にして撫でられる。
そうされて初めて自分が泣いている事に気付いた。
先生から触れられた。停止した心と同じく涙も途切れる。
「熱い、な……。」
>>706の情熱に揺り動かされるばかりだ。
涙するその表情に胸を締めつけられているはずが、もっと見ていたいとも思ってしまう。
相反する不可思議な欲求を持て余しながら、問いに対する返答を述べる。
「お前を信じた事を悔いていた。遠ざかればそれで済むと思っていた。」
「お前は俺だけを好いているのだと、それを疑う余地がなくなっていただけだ。」
「特別お前自身に落ち度があった訳ではない。あったとしたら最初からだろう。」
「他の誰を想っていようと、お前を許容する。そうすると決めたからここへ来た。」
単純な快不快ではない、思案している心情を吐露する経験は皆無だった。
だからなのか、話す早さは普段の取るに足らない会話の時よりも幾分緩やかになる。
言い終え、達成感に似た安堵と多少の後悔に身を任せる。
触れていた手で涙を拭い去り、言葉を重ねる毎に驚きを深くしていった>>706の反応を待った。
時折発現していた、身動きが取れなくなる程の強い束縛と言える>>706の激昂。
もう向けられはしないのだろうかと、坦々と心が落ちていく。
きっと望んでいた。……望んで、いる。
先生に言われた事を脳が受諾するまでに相当な時間を要した。
信じてくれていた。伝わっていた。
『お前を許容する。』この言葉が胸を打つ。
許されるという事は、どれ程までに救いを譲与し得るのだろう。果てが見えない。
そして……俺が先生以外の誰かを好き?有り得ないこの選択はどこから来たのだろうか。
「せ、先生……、先生は、俺が先生じゃない他の誰かに惚れてる、って思ってるんですか……?」
眉をひそめられた。少し疑問を抱いている苦い顔。
「そうだ。>>531、だろう。」
「え、……えぇ……?ちょ、ちょっと待って下さいっ、……な、なんで……。」
「……テスト期間中。夕方の保健室。そこでお前が、>>531に惚れている、と。>>531も、そうだと。」
「なっ……、そ、そんなこと、…………っ!」
――思い出した。黄昏時、夕焼け色の保健室だ。
満ち足りていた最後の日、>>531さんとも親しいままで居続けられると信じたあの日。
あの時の他愛ない冗談の様な会話で、先生は何かを感じたのだろうか。
>>531さんを好きな上で、許容する。これはあまりに寛大が過ぎるのではないだろうか。
少しでも、執着の様なものがそこにはあると、そう言ってしまってもいいのだろうか。
仮定ばかりの思考だと分かっていても、そうとしか考える事は出来なかった。
たとえ正しくないとしても、勘違いするのなら今だ。顔が泣きそうに歪む。
先生に抱きついた。
「!>>706……っ、なに、を……。」
「先生、好きです。先生だけが好きです。」
「っ……。」
「『もしもセル先生とクウラ先生に会わなかったら』。有り得ない過去の話だったんです。」
「…………!」
「先生だけを大好きなんです。変わりません。」
涙の滲んだ目をして眩い笑みを溢れさせているその顔を眼前に晒される。
視線を強く引き寄せられる。目が離せない。
「そう、か。」
湧き出た感情は安堵だけではなかった。淡く侵蝕する様に広がる。
この先どうなろうとも、妥協し、許容する、と……。
俺はこれを受け入れる。
長い間>>706に抱き締められ、体感していた。
「……もうこんな時間か。生物室を施錠するよう学園に連絡を入れてくる。」
「って、他の先生は分かってるんじゃないっすか?」
「いや。無断で出て来た。」
「え……。あ、あの……学園の他の先生達から言われてここに来たんじゃないんすか?」
「セルからこの病院に入院している旨を聞きはしたが。……何故そう思った。」
「俺が無茶なことをするから、面倒を任されたのかと……。それでここに来た、って……。」
「…………。自主的に、だ。それに、俺が誰かの指図を受ける筈がないだろう。……っ!」
唐突に二度目の抱擁を受けた。
再び狼狽してしまい、言葉が出てこない。自身の両腕が所在なげに揺れた。
「嬉しいっす……。好きです、先生……。」
抱き締める腕に、更に力が篭っていく。
分け与えられる熱を心地よく思う。静かに溜め息を零し、されるがままに身を任せた。
妥協し、許容するという事が、俺に深化を齎した。
結果論でしかない。だが、救われた。そう思ってしまう。
精神的負荷を与えられはしたが、先にはそれを超過する見返り、情があった。
「そうだ。さっきここに来てくれたばっかりの時、先生ちょっと笑ってたじゃないっすか。」
「何でだろうって思ってました。」
思案し、至ったのは妥協を是とした瞬間の事だった。
それに引きずられて胸に巡った奇妙な痛みもついてきた。苦い記憶だ。
「……ああ。自嘲だ。」
「え……。」
「きれいだなって、印象に残ってました。……はは。いっぱい話さなきゃ全然伝わんないっすね。」
「……先生、これからも……そばにいてもいいですか。」
>>706の目に、微かに怯えの様な色が見えた。
普段との差が激しく、不調だった先刻までの>>706。目を背けたい程だった。
その姿を思っての情けか、>>706は喧しいものだという常との不和を嫌ってか。
「お前の……、好きに、したいようにしろ……。」
――そのどちらも上辺でしかないと知ったばかりだ。
俺の最大の譲歩は『許容』だ。こちらから手を差し伸べる事は有り得ない。
そのはずだ。
唾棄すべき感情だと思っていた。無知なだけだった。
……忌避すべき、愛すべき――。
生物準備室の清掃を再開させる。前の調子に戻った>>706。
小さな溜め息が自然と零れた。鬱陶しさ故か安堵故か、自らでさえ判別出来なかった。
終